穏やかで満ち足りた、いつもと同じ――でも少し、日常とは異なった朝だった。
優しい陽の光に部屋が包まれ、部屋の温度がにわかに上昇し始めた頃合。
キラはまどろみから目覚めようとしていた。
まだ覚醒には程遠い意識で、焦点の合わない瞳を何度か瞬きさせる。
眼前に大きく広がり、キラの視界の全てを奪っている、きめの細かい肌と濃紺の髪。
「アスラン…」
掠れて音にはならなかったが、ありったけの感情を込めて呟いた。
隣…というか、僕を抱きしめて眠るアスランは、ここ最近では考えられないほどに穏やかで安らかな表情だった。
見ている方が照れてしまうほど幸せそうで、綺麗な微笑を浮かべていて…。
僕は思わず赤面してしまった。
あんなことやこんなことまでしてるくせに、とアスランによく言われるけれど、照れるものは照れるし、恥ずかしいものはやっぱり恥ずかしい。
ふと、昨夜の情景が頭をよぎって一人、羞恥に喘ぐ。
何とか思考外に追いやって、恨みがましく再びアスランを見上げると、さらさらとした細い前髪が顔にかかっていた。
まさに蟻の這い出る隙間も無いほどにアスランに抱きしめられていたが、比較的自由になりそうだった左手をそろそろと抜き出す。
途中、何度かアスランを起こしてしまうかと不安になったが、なんとか目覚めを促すことなく、今だ見惚れてしまう美しい顔にかかった前髪へと手を伸ばした。
アスランの顔は本当に整っていて、まるで――まるでこの世の人、全てのためにあるかのように錯覚するほど人目を惹いて…。
惚れた贔屓目を抜きにしても、目を奪われるし、他の人だってそうだ。
本人は無頓着だけれど、一体どれほどの人がそういう目で見ているのか…。
少し胸の痛みを覚えつつ、すっかり手に馴染んだ髪の感触を楽しむ。
ふと目に入ったのは髪を弄っている左手の薬指。
他の指と比べて付け根が赤く鬱血したそれは、昨夜アスランが執拗につけた痕であった。
「あっ…」
思わず声を発してしまい、慌てて口を噤む。
『結婚』
ここ最近アスランが元気がなかった理由であり、昨日僕らが交わした約束。
思いつめた顔をして全ての気持ちをぶつけてきたアスランに、僕も全てで応えた。
自分で申し込んできたくせに、僕が了承の返事を伝えると本当に驚いた顔をして。
僕の返答を一体何だと思っていたのだろうか。
まったくアスランは…。
その後の行為の中でも確かめるかのように何度も呟いて、本当だよ、と僕が返す度に泣きそうなほどの笑顔を浮かべて口付けを落としていった。
(しょうがないな)
昨日のアスランの様子を思い出して、キラは一人苦笑した。
ふいにキラの脳裏にある疑問が浮かび上がった。
結婚をしたら何が変わるのだろう?
アスランの気持ちは痛いほどに伝わってきたし、僕もそれを望んだ。
――けれど、いまいち実感がわかない。
同居――は既にしているし、おそらく生活が豹変するということはないのだろう。
ただ、今まで完全に別々で保管されていた個人データが一括りにされて、公にも一緒にいることを認められる。
まだ全ての人の理解を得られるとは思わないけれど。
それでも僕のものになる。この瞳も唇も腕も、吐息ですら僕のものになる。全て――この身体が僕だけのものになる。
誰かが羨んでもそれは揺るぎ無い事実で、僕だけの特権。
僕はアスランのもので、アスランは僕のものだと保証してくれるもの。
――違うだろ?
一頻り思考を巡らせ、醜い感情になっていることに気がつき自らを諌める。
幸せなものだとわかっている。現に自分の――育ててくれた――両親はいつも幸せそうで…。
アスランのおばさんだってそうだった。
めったに会えなかったけれど、会える時は何日も前から楽しそうにしていたのをよく覚えている。
だから…だからこそ…
コワイ。
本当に自分はアスランと結婚していいのだろうか。
僕はアスランと幸せになってもいいのだろうか。
僕だけがアスランと一緒にいてもいいのだろうか。
コワイ。
アスランは僕と一緒で本当に幸せになれるのだろうか。
コワイ。
僕なんかよりもっといい人がいる気がする。
ラクスは元婚約者だったわけだし、カガリは恐らく今でもアスランに恋心を抱いてる。
それなのに僕は終戦後、アスランを一人占めしてしまった。
宇宙に漂っていた僕を抱きしめて「愛してる」と言ってくれたアスランから離れる事などもうできなくて。
アスランが他の人を抱きしめているところなどもう二度と見たくなくて。
……もう失うのがコワイ。
一緒にいればいるほど失う事に怯え、弱くなっていく。
互いの気持ちはよくわかってる。もう絶対に離れないと、アスランも僕も固く誓ってる。
でも、それでも不安になる。
思いが深くなっていけばいくほど、この不安も大きくなっていく。
どうしようもない程に膨れ上がって、押しつぶされそうで…。
アスランの気持ちは昨夜再確認した。
でもどこか信じきれない。アスランが、ではなく僕が――。
立場も何もかもを乗り越えて求婚してくれたのに、それでもまだ僕でいいのかわからない。
気持ちは疑わない。それだけが真実だから。
でも…でもっ…
確かめたい、確かめなきゃいけないのに声に出して聞くことができない。
ただ、涙が溢れるばかりだった。
好きだから幸せになって欲しい。
僕と一緒で幸せになれますか?
僕を固く抱きしめている愛しい人に心の中で問いかけた――